もも

桃の節句

 

www.youtube.com

 

ちょうど今日は桃の節句だったらしい。ひな祭りという言葉が世間をうずめき、数々のお人形が街を彩る。そんな日なのかあ。と。こうして自粛しつつ自宅で生活するようになってから、季節を感じることがとても少なったように思う。前までは、自転車にかなりの時間を割いていたので、そこで見る景色から季節を知っていた。山がアオアオとして、汗が止まらなくなってきて、浴びる海風の湿っぽさにちょっといらつきつつも、ああようやく夏なのかなとか。かと思えば、木の葉の紅葉、黄葉が進んで、だんだんなんか過ごしやすくなってきたなと思うような季節になれば、もう秋も深々としていたとか。気が付けば冠雪している箇所が出てきて、肺に取り込む空気の冷たさを感じたり、ハンドルを握る手が凍ってきて手袋をしていたりとなれば冬も厳しいねえだなんて思うとか。最近はめっぽうそういったことが無くなってきてしまったなというように感じる毎日だ。

 

もともとゲシュタルト崩壊を感じやすいせいか、漢字の成り立ちについてふと考えることがある。漢字の成り立ちと、その漢字その音がどうしてそうなったのか。例えば桃(もも)について考えてみたくなった。ちょうど桃の節句だからね。ももというのは、ももっとしている?ことにあるのかな(笑)とか考えてしまうのだ。そういう日常に疑問を持ってしまうのは、もしかしたらよくない癖なのかもだが、たまにそういうことに頭を巡らせてみるのもいいだろう。

 

漢字に関しては、桃が木になる様子を表したところがそのまま映しているように感じた。だとしたら、林檎とかも同じような感じになるのではないか?という疑問も併せて湧いてくるけれど、それはそうとして。葡萄はどうなんだ?とか。まあそれはほっといて。桃は、木に実がついているときに漢字が表すような実のつき方をしているのではないだろうか。そこに元からあった、もも、という読み方を当てたという流れになっていると個人的に解釈した。あってるかどうかはこれを書いている時点ではしらない。

 

読み方についてもなんとなく自分で答えを得た。というのも、も、というひらがな、じつはももの形にそっくりではないだろうか。この、も、の、し、の部分それを2つ重ね合わせてあげればもも、確かにももの果実の形をしているように見えてくる。そこで、なんでししじゃないんだよ!とかいう疑問もわいてくるけど、それはどうでもよい。

 

というように成り立ちを考えてみること、そして自分で意味を与えてみて先人たちがなぜこの物体をそう名付けたのかというところに迫ってみること、意外と面白いなというところに気づいたのは、大学に入る少し前くらいのことだろう。きっかけはどうであれ、それを適度に楽しめればいいんじゃないか。

 

それを考えだしたら、雛という感じってどこから来たの???とかいうことになって眠れなくなるから、この辺にとどめておこう。また時間があるときにでも思索を巡らすだけでいい。

ひろゆきはなぜ面白いのか

ひろゆきはなぜ面白いのか

 

www.youtube.com

 

西村博之。通称ひろゆき。もともと僕の印象を書き並べてみよう。ただの強い意見をネット上で発信する人。2ちゃんねるの作り手で今はフランスに住んでいる。そんなイメージしかなかった。

 

それが、最近すごく面白く聞こえるようになった。きっかけはR25youtubeを見たからだろう。一見それって暴論じゃないか、そんなことを言い出したらキリないだろ!っていうように思えるようなことが多い。だけれども、実はその筋の通り具合というのは極めて明快で、とても聞いていて面白い。なんでなんだろう。唐突にそんな疑問が僕自身の中に湧いてきた。

 

ひろゆきトーク術が面白いと思える理由は何だろうか。僕は常識を打ち破った考え方にあると思っている。僕らが日頃常識と考えているような知識、当たり前だよねと決めつけて放置している考え方、そういったものに対して、「ほんとにそれってそうなの?」という疑問を常に持ち合わせることに原点があるんじゃないだろうか。そして、そこから派生する自分の考え方について、早口ではあるけれどわかりやすく論理展開をして説明をする。多くの人にとって、疑問でなかったところを突かれたときにどう考えればいいのかというところで露頭に迷うことがある。そこでこういう考え方があるよね、というより見ている側にとってはこういう考え方しかないよねという幻想を持たせることによって共感を生み、人気を博す。そういう構造にひろゆきが面白いという要素があるんじゃないかなと思う。

 

これを書いてみて、思ったことが二つある。

 

まずは、疑問を持つ姿勢というのは常に持ち合わせるべきであるということだ。何でもかんでも疑ってばっかりというのもそれはそれで問題だとも思う。ただ、僕がこれはまあそりゃそうだよね、と今まで思っていたことが実はそりゃあそうじゃないんじゃないのか?って思っておくような俯瞰的な目を養うことは、将来的にも役に立つのかな、という考えを持っている。これを具体的に行動に移せるかどうかというのが今の僕の課題だ。これまでも散々思ってはきたものの、すぐに忘れてそれを実行できないというのが僕の悪い癖だった。今回ももしかしたらそうかもしれない。でも、できないかもしれないと思ったら本当にできなくなってしまうから、今はそれができるという根拠のない自信を持って、取り組んでみるというのが肝要だと決めつけておこう。

 

もう一つは、ある考え方はその物事のとらえ方の一側面でしかないということを明確に認識することだろう。絶対なる信用というものは存在しえない。個人というのは今まで思ってきたことや経験したことの集合体でしかないわけで、この世界に70億を越すような数の人間がいたとしてもそれぞれは確実に違う。じゃあその人にとって見えた景色が僕にも同じように見えるのかと言われればたいていの場合違うよなというわけで、そこを自分の中で絶対化する、決めつけるという方向にもっていかないことも意識のうちに入れておいたらいいなとも思った。

 

見方というのは限られたところに焦点を当てだすとそれを突き詰める方ばかり向いてしまうので、それが自分の視野を狭めていることに気づきにくい。それにいま気づけた僕はよかったと思って、あとは直していくことが自分のできる最大かつ最適のことなんじゃないかなと思った3月の初っ端。

あれれ

あれれ

 

www.youtube.com

 

あれれ。気が付いたら、僕は本が好きになっているではないか。

 

あれれ。どうした、何があった。

 

あれれ。日々沈んでたんじゃなかったんか。

 

あれれ。なんかポジティブになってるじゃないか。

 

最近、数年ぶりに新しいゲームを始めた。とはいっても、オセロである。オセロのAIがまあ強い。ほんとに打ち負かすことが本当にできない。そこで自分が失敗することに対する耐性をつけようと思った。そうしたら、意外とできる。意外と。失敗してはあ、ってなるかなと最初は思っていた。実際は違った、僕は失敗してもまあいいかどうせ次があると考えていた。こんなに考え方をすぐに変えようと思ったときに変えられるのかと逆に自分で驚いた。その速さが自分で見ても異常なように思う。ただ、これは確実に今まで持っていなかった思考だし、そこで得た感覚を今度は持続させることにフォーカスしないといけないんだろう。

 

継続は力なり。古代の人々はいい言葉を残していると強く思う。何ごとも、あきらめないことが肝心で、自分の満足が行ってなかったとしても、まあこれくらいやれたからいいでしょう、というマインドを常に持ち合わせつつ進めること。これができるかできないかの差が大きいということはようやくわかってきた気がした。今までも散々言われてきた。あきらめたらそこで試合終了だぞ!って。大学受験の場などで耳にタコができるほど聞いた。でも、そこはあきらめるというものが選択肢として存在しなかったから、必然的に考えなかったような気がする。ただいまはいくらでも、あきらめようと思えば諦められる状況にある。僕がこういう思考をやめたら、元の通りネガティブの沼にはまって抜け出せなくなるだろうし、全く持って自分の更生というものができないだろう。決して今も完全になんかできているはずがない。だってそういう風なマインドセットをしようと思って3日目だから。そりゃ、ちゃんとできてはいない。けれども、何となくではあれけれど、大事なことをきちんと見れるようにはなってきたかな。

 

本の話に戻ろう。今日何をしていたか。本を読むことに没頭してほかのタスクなんもやっていない。嘘だろ。こんなこと今までの人生の中にあったか?少なくとも本とは無縁の世界に生きてきた人間だったので、この感覚は初めてのものだった。文章に飲み込まれるという感じ。何も文章に圧倒されて飲み込まれているというのではなくて、文章の論理展開に目を見張るものがあり、そこに至極滑らかにひきつけられているとでも言おうか。自分が思っていた状況や、これからに必要なスキル、先人たちの知恵など多岐にわたる。それはただ、読んではい終わりというものであってはいけない。そこから得られたものを自分に取り入れて、しっかりと考え方を改めていく、そうやって自分を変えていく、そこに大事な要素があるとみている。今は幸いにも時間があるから、そこをしっかりと進めることが大事。

 

こうやって継続してブログ記事を書いてみることも、習慣として取り入れられるのならば確実に進めるべきことだと思うし、何もこうやって文章を自分なりにまとめてみることが悪いことにはならない。今までの僕だったらこうだ、え、ブログ?それ書いて何の意味があるの?え、本?それ読んで何の意味があるの?え、勉強?それ学んでなんの意味があるの?

 

 

 

 

知らん。

 

 

 

 

んなこと。

 

 

 

 

 

ただやってみたいからやってるんだ。

 

 

 

 

 

 

1つ目的があるとしたら、自分を変えるために。

 

 

 

 

 

 

明日の自分が今日の自分より進化していれるように、といったところだろう。

 

 

 

 

 

 

 

だから、明日もブログを書いてみるんじゃないか。

2月まとめ

2月のまとめをしよう、まだ終わっていないけれど

 

www.youtube.com

 

2月いろんなことがありすぎて、何があったっけ、となった。あらゆる自分の行いがどのような思考をもたらすか、を考える期間にもなった。

 

というより、新しいことの連続でしかなかっただろう。

 

新しいこと、しか、なかったといってもいい。

 

気が付けば、いろんな意味で刺激的な月になっていた。

 

コロナのせいといえばコロナのせいかもしれないが、自分のあらゆるバランスが崩れていたことにも気づいた。

 

思考回路というのは外部環境に大きく依存している。いや、自分に内在するものがなんで外部環境で決まるんだ?となっていた。いや”内”は”外”があってこそ初めて定義されるんだから、ある意味当然の話である。その環境が大きく変化しているということに今まで気づけていなかった。世の中や社会は連続的に変化する。急に何かが起こったことに対する変化というのは誰だってわかるものだろう。ただ、連続的に変化しているときに人はその変化に気づきにくいということをよく理解した。そのつもりである。ようはコロナウイルスと家庭環境の二つの要因が原因で、自分の思考がより内向きになりなかなか立ち直れない日々が続いた。実際今もあんまり立ち直れてはいないけれども、その考え方に気づくことはできた。だからあとはそこを直そうと思って直していくだけ。

 

つい最近あるエッセイを読んだ。つい最近と言っても見つけたのはちょっと前で、それから目を背けていた。ただ、あることがきっかけでそのエッセイを読み直そうと思った。その中のある言葉に僕は惹かれた。

 

”だからこそ、常識を破れなのだ。点を疑わずにそのまま放置すれば、それはただの点であり、何の役にも立たない。でも、これはいいのだろうかと疑問を持つことで、点に意味を持たせることができ、さらには他の点との繋がりも生まれ、凝り固まった常識を壊していけるのである。”

 

なるほど。凝り固まっているのか、とそれを読んで気づいた。その前のところで当たり前はその人の生きてきた年数分の主観の塊だ、とも書いてあった。なるほどなるほど。僕の思考のこりがすこし取れたような気がした。というよりかは、取らないといけないなと思った。ここのスキルが足りていない。このことについてしっかり自分で自分を見定めて生きていかないといけないなと強く感じた。

 

対話というのをしてみて初めて気づけることがある。対話といえば大げさかもしれない。ただ、自分の思っていることをありのままにさらけ出してみるのも悪くないのかもしれない。久々にこんなに親と話をした気がした。僕はあらゆる思考を隠すということをしていたから、逆に新鮮な感じ。

 

失敗をきちんと認めるところからが僕のスタートだろう、自分を受け入れるところと他人をきちんと受け入れるところから僕はもう一度スタートする。

 

気づきを得たうえで普通に戻れとあらゆる人から言われた。自覚がないところが大きいけれど、今僕にできることはそれに素直に従って自分のできること、するべきことを着実に進めるほかないんだろう。

 

あとはそれをする意思をきちんと持っておくにこしたことはない。

ときはかねなり

時は金なり

 

www.youtube.com

 

自分の生きている時間は有限だなと最近すごい思う。今までよく親は言っていた。特に受験期間。使える時間は限られているんだから、その間ちゃんと勉強しなさい、と。別にこれは勉強に限った話ではない気がする。何をするにしても設けられた期間の中でこなす必要があることばかりだなと。その中でどれだけやりたいことを見つけられるか、自分なりに時間に意味を見出せるか、そこにかかっているんだろうな。

 

そういう意味では、この春休みをただ時間の浪費にしないようにな。最低限できそうなことをたくさんしてみる、新しいことにたくさんチャレンジしてみるということが大事なんだろう。勉強もそうなんだけど、別のこともたくさん。いい加減旅行して、自分に対するリフレッシュも欲しいな。

 

最近まで、いろんなことに対する欲望がなかったんだなと気づいた。ぼんやりとしか何かをしたいというイメージを持っていなかったように思う。それがここのところ自分について考えてきたらより輪郭がはっきりしてきた。

 

音楽もその一つだろう。自分の思う存分こだわった曲を作ってみたい。アイデアはあるから、それを妥協無く高められるところまで磨き上げたい。今までは、自分で思いついたアイデアを軽く弾いて、それを曲としてyoutubeにアップロードする、ただそれだけの軽いものだった。そこに軽さがあったことはある意味いいことなのかも。でも、僕はいまは一つの物事に熱中し、没頭し、そこに自分を少しでも忠実に表現できるようになりたいな。自分がしたい音楽ってなんだろうって。そこに答えをすぐに見出すことは難しいはずなんだけど、そのポイントに向かってできるだけ努力を積むべきだなと。

 

あとは身の回りで持っていなかった知識をたくさんつけて吸収してみたい。人から薦められたことを拒絶しないで、できるだけトライしてみること。これが僕のこれ以降の課題かな。今まで新しいことに対する恐怖心が抜けなかった。新しい人と話す、新しいものを取り入れる、こういうことにびびりにびびっていた。それを克服するべきなんだろうな。

 

あとは、自己管理をきちんと怠らずに進めること。考え無しで今まで生きてきたことに対して今更ものすごい後悔していて、だとしたならば僕は将来のことも考えてきちんと、今のうちから常に考える癖というものを持った方がいいなと感じている。

 

もっともっと自分がちゃんとまともな人間になれるように努力しておこうかな。

ときをへて知る自分のみ

もう今月が終わってしまう。

 

www.youtube.com

 

 

時間って不思議だ。気が付くと、過ぎていることが多い。今年に入ってからひと月、つまり31日が経った、と言われれば風のように過ぎ去ってるなという感覚を覚えるけれど、今年の8.5%が終わったといわれれば意外とそんなもんかというふうに思ってしまう。僕は前者の思考に今なっていて、あまりのことに開いた口が塞がらないといえば言い過ぎなのかもしれないが、ただただ茫然としてしまう。

 

今月何をしたか。今月、僕は家にいた。9割方家にいた気がする。

 

実は12月まではそうでもなかった。このご時世にしてはかなり外出していた。ほぼほぼチャリに時間を費やし、バイトに行き、実験をこなし、友達と外でご飯を食べ。普段と違う事は、大学の授業がオンライン形態に変わったことと、外にいるときマスクをしているくらい。大きな違いだとは思うけど、慣れてしまった身としてはもうそのあたりも含めて僕は日常生活の一部になってきた気がする。

 

ところが、今月は違った。家での生活を極めた。確かにバイトは行ってたが、それ以外は実験の1回を除いてすべて家に引きこもっていた。もちろん家庭的な事情、緊急事態宣言、そういったことが合わさっての隠居(?)生活だった。

 

そこで得たものはかなり自分にとって、大きな意味を持つ気がしている。

 

第一、僕は僕のことがますます嫌いになっていた。(今はそうではない)自分の能力の低さや自分のあらゆることに対する対処法のバライエティのなさなど、ひたすら欠点にばかり目が行って、絶望し落胆し過去の行動を省みる日々。そういったことが積み重なって、家族や友人に大迷惑をかけることもした。いま振り返れば本当に申し訳なかったなと。あまりにも自分の身勝手さを優先した行動だったと思うし、反省している。

 

ただそこで、僕は初めて自分の思っていることを家族にぶつけてみた。家族が言うように強制したから。メインとしては自分で自分のことをどう考えているかということだろう。そこであらゆる人から言われた、おまえ成長したなって。正直、涙が止まらなかった。なんであの時泣いていたか、というか久々に泣いた気がする。泣いた理由がその瞬間にはわからなかった。なんで僕はこんなしょっぱい液体を流すに至ったか。でも今ならなんとなくは答えを得ている。うれしかったんだろう。自分が周りに認めてもらえたということに対して、不器用ながら(相当不器用かつ変だけど)喜んでいたのかな。そんな気がする。実はあれが一週間前で、あれから一週間経ったと思うのがびっくり。だけど、言われた通りかなり睡眠時間を取ったり、しっかり休みを取る方向にシフトしたおかげで考えは変わった。かつ友人から進められた本を読むことで、だいぶ考え方を切り替えることができたように思う。

 

第二に、家事が好きになった。発端は自分の机の状態にある。いままで僕の机はほんとに汚く、常にいろんな紙が山に積み重なっておかれている状態。特に片付けなきゃと意識したこともなく、親に怒られてはこういうものも捨てなきゃなあと思うにとどまっていた。それが180°変わった。いまでは机の上にあるものがほんとに整理されているし、紙はなく、PCとiPad,眼鏡ケースにレーズン、筆箱、貴重品と棚においてある教科書くらい?(日常的にレーズンは食べているのでここは許容)月初に整理して、これを維持しよう!って思っていたんだけど、まさか有言実行できるとは。びっくりした。でもいまでは、それを当たり前にしなきゃなという意識が働いて習慣的にきれいするようにできている。人って変われるなってちょっとだけ思った。

 

それがきっかけで、家事をたくさんするようになった。部屋の掃除、服の整理、食器洗いから、洗濯など。今まで家族に依存してたんだなーというおもいが募り、だとしたらそこを抜け出して自立に少しでも近づけるようにしたいなと考えるようになった。そしてそういうことしている間で音楽を聴く時間が増えたし、何より無心で家事ができることに僕は快感を覚えるということに気が付いた。それがために、家事を継続するようになったし、これからもそのスタンスを変えないでそのまま生きたいと思う。

 

第三に、服を見るようになった。これも家族依存が原因で話すのも恥ずかしいくらいだが、パーカーがありすぎる。いらんほんと(笑)。こんなにぱーかーばっかほしくないの!!楽だけど!!!まあ、それなりに服にも興味をもって自分で調べてみようかなというマインドセットが組まれたので、お金をためて少しだけ手をだしてみるのもありなのかなと思った。

 

1つだけできなかったこと。音楽ができなかった!!なんか音楽作るモチベーションが全然上がらず。先輩に迷惑をかけてしまった側面があるから、来月はそこを改善していいものを作る。たくさん作るのではなくて、クオリティの高い物をしっかり作り込みたい。

 

月ごとに自分の変化をみることができるの楽しい。そのためのブログなのかもしれん。面白いな。自分の総括をまとめるってこんなに楽しかったか。来月もするだろう。何かしらでも自分が成長できるように努められたら、いいことこの上ないのかもな。

生きる意味 ~羊と鋼の森を読んで~

僕は後悔している。

 

www.youtube.com

 

今に始まった話ではない。人生に後悔している。

 

なんでこんなにぼくは本を読んでこなかったんだろう。年末の時点では、何も実感もなかったけどそう思っていた。来年は本を読まなきゃと。でも新しい年が始まってから2週間、自分の過去の態度、姿勢に歯がゆさしか感じない。物語ってとても美しいじゃないか。それがただ僕の興味のある内容だったからかもしれない。ピアノの話だったから。でもこうやって風景を想像しながら読み進める物語、小説の味というのをほんの少しだけ知れた気がする。

 

読むという行為には二つあって、それを口に出して読む、それを目で追って読むということがあると思う。前者は僕は大好きだ。それは教科書の音読に始まり、中学校の英語、それは高校までも。大学に入ってからはあまりそういう機会を得ることはなくなったが、やはり与えられた教科書を声に出して読むことには何ともわからない快感があった。

 

口に出すと何となく自分の考え方も透けるような気がして、頭の整理にもなる。最近新しい感覚を得たように感じる。人に悩みや相談事をしたり、普段何の気なくしゃべっていたことから、ああ、僕はこういうことを考えているんだとなることが多々ある。それはできていないことも含めて、理想形であったり、自分が後悔している過去であったり、その形態は様々だ。そういうことを脳内のみでやりくりするのではなく、伝えるということをすることで初めて開けるものがあるように思う。

 

だとしたら、後者の方、すなわち目で追って読むことも僕は好きなんじゃなかろうか。無理やりにでも言い聞かせたくなってきた。まずもって、僕は想像することが好きだ。普段の想像のもとは自分の行動にある。僕がこういうことをしてみたい、過去の自分がこうであればな。じゃあその起点を本の中の主人公に置き換えてみれば、もっと幅広い想像が、できるんじゃないだろうか。それができたらもっと楽しいんじゃないだろうか。いまはそういう感覚を強く持っている。

 

だから、今までは全くできていなかったけど。

 

本を読んでいろんなことを感じたい。

 

その一発目;宮下奈都著 羊と鋼の森

 

調律師にまつわる物語だ。調律師とは、どういう職業だろう。一見、ピアノの音を揃えるだけと思われがちだ。しかしそこには、調律師と依頼人との話から生まれる音がある。依頼人がピアノを弾くことによって輝きたいという思いがある。それに寄り添えるのはどういう調律だ。そこに対峙するようになった一人の人間の生きざまを描いた作品。

 

まずもって、描写の鮮やかさに僕は打たれた。広がっていくピアノの世界、どこか冷たさを覚える鋼の森に羊の温かみがふんわりと漂うような感じ。決して羊ということは本文中では出てこないものの、どこか森林の描写にピアノが時としてもつ凛とした表情とやさしさとを両立させた表現によって、僕がピアノの作り出す世界観をより深く想像できるようになった気がした。

 

主人公が僕に似ている部分があるのも気になった。こだわりがないところとか。でも、それだと調律はどうにもならない。そこをカバーできるのは実力があるからだと先輩調律師が言っていたとき、僕は自分のことのように感じてしまった。こんな自分にひきつけて読むことがはたしていいものなのか。わからないけれど。ぼくだってこだわりがないような気がして、少しこの見方とは違うが、何事をするにしてもそのもとに考えがないというところは間違いがないだろう。そこを補填するには実力で今しなければならないことを抑えきることが大切だと。勉強にも同じことが言えるのかもしれない。人間力にも?それができるようになれば、もっと自分ができることが増えて自信がつくだろうし、変に考え過ぎることがなくなっていくのではないかと思う。

 

考え過ぎるってなんだろう、と。僕の場合は自分がいいと思う考え方にまとまりがないことがすべての原因だとふと今思った。自分はどういうものの考え方なのか、こういう場合は自分はどういう物事の進め方を取るのか、それに対する真剣な基準を持っておらず、その場で口先だけで軽々と物事をしゃべっているに過ぎないんじゃないか。そういう感覚に陥った。そんなことしているから考え過ぎて、後からアホだなと思ったりするんじゃなかろうか。いや、じゃあ持っておくべきは何か。決まり切っている。根本的な自分の考える基準を持つというところだろう。これに気づけて良かったのか。本はそのヒントを得られるものじゃないんだろうか。じゃあもっとたくさん本を読んで何が自分んの思う正解かをしっかり見抜くことが大事なんじゃないか。

 

話が横道にそれ過ぎた。

 

僕がこの文章で一番好きな表現を取り上げるとしたらここになるだろう。

 

「早くに見えることよりも、高く大きく見えることの方が大事なんじゃないか」

 

人間関係の本質を言い表している気がした。そして僕に間違いなく足りない視点な気がして、はっとさせられた。この視点を持っていなかったから僕は今までの人間関係において決してうまくいっていなかったんじゃないか。

 

僕は人生に後悔している。