ひろゆきはなぜ面白いのか

ひろゆきはなぜ面白いのか

 

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西村博之。通称ひろゆき。もともと僕の印象を書き並べてみよう。ただの強い意見をネット上で発信する人。2ちゃんねるの作り手で今はフランスに住んでいる。そんなイメージしかなかった。

 

それが、最近すごく面白く聞こえるようになった。きっかけはR25youtubeを見たからだろう。一見それって暴論じゃないか、そんなことを言い出したらキリないだろ!っていうように思えるようなことが多い。だけれども、実はその筋の通り具合というのは極めて明快で、とても聞いていて面白い。なんでなんだろう。唐突にそんな疑問が僕自身の中に湧いてきた。

 

ひろゆきトーク術が面白いと思える理由は何だろうか。僕は常識を打ち破った考え方にあると思っている。僕らが日頃常識と考えているような知識、当たり前だよねと決めつけて放置している考え方、そういったものに対して、「ほんとにそれってそうなの?」という疑問を常に持ち合わせることに原点があるんじゃないだろうか。そして、そこから派生する自分の考え方について、早口ではあるけれどわかりやすく論理展開をして説明をする。多くの人にとって、疑問でなかったところを突かれたときにどう考えればいいのかというところで露頭に迷うことがある。そこでこういう考え方があるよね、というより見ている側にとってはこういう考え方しかないよねという幻想を持たせることによって共感を生み、人気を博す。そういう構造にひろゆきが面白いという要素があるんじゃないかなと思う。

 

これを書いてみて、思ったことが二つある。

 

まずは、疑問を持つ姿勢というのは常に持ち合わせるべきであるということだ。何でもかんでも疑ってばっかりというのもそれはそれで問題だとも思う。ただ、僕がこれはまあそりゃそうだよね、と今まで思っていたことが実はそりゃあそうじゃないんじゃないのか?って思っておくような俯瞰的な目を養うことは、将来的にも役に立つのかな、という考えを持っている。これを具体的に行動に移せるかどうかというのが今の僕の課題だ。これまでも散々思ってはきたものの、すぐに忘れてそれを実行できないというのが僕の悪い癖だった。今回ももしかしたらそうかもしれない。でも、できないかもしれないと思ったら本当にできなくなってしまうから、今はそれができるという根拠のない自信を持って、取り組んでみるというのが肝要だと決めつけておこう。

 

もう一つは、ある考え方はその物事のとらえ方の一側面でしかないということを明確に認識することだろう。絶対なる信用というものは存在しえない。個人というのは今まで思ってきたことや経験したことの集合体でしかないわけで、この世界に70億を越すような数の人間がいたとしてもそれぞれは確実に違う。じゃあその人にとって見えた景色が僕にも同じように見えるのかと言われればたいていの場合違うよなというわけで、そこを自分の中で絶対化する、決めつけるという方向にもっていかないことも意識のうちに入れておいたらいいなとも思った。

 

見方というのは限られたところに焦点を当てだすとそれを突き詰める方ばかり向いてしまうので、それが自分の視野を狭めていることに気づきにくい。それにいま気づけた僕はよかったと思って、あとは直していくことが自分のできる最大かつ最適のことなんじゃないかなと思った3月の初っ端。